小笠原 紳一 著『企業分配とハイブリッド課税構造―バーチャル株式譲渡損失創出の本質と問題―』
小笠原 紳一 著 (一橋大学大学院 院生)
『企業分配とハイブリッド課税構造―バーチャル株式譲渡損失創出の本質と問題―』
(2024年8月 信山社出版株式会社)
本書は、IBM事件における自己株式取引(自社株買い)によって発生したとされる株式譲渡損失を、「損失そのものではないが実質的に損失とみなせる」という意味で「バーチャル株式譲渡損失」(副題)ないし単に「仮想(Virtual)損失」(本文)と呼称し、また、単一の分配(清算分配)につき配当(みなし配当)と株式譲渡損益という2つの「峻別」された所得特性を認識することを基礎として重畳的・複合的に構築された課税構造を「ハイブリッド課税構造」と呼称した上で、仮想損失創出の起源を辿りながら、仮想損失創出の本質ないし仮想損失の実体を明らかにし、仮想損失が由来するハイブリッド課税構造の改善により公平で中立的な分配課税制度を実現する提案を行うものである。
すなわち、まず、IBM事件を端緒とする分配課税に関する問題意識や、仮想損失やハイブリッド課税構造の意義、さらには本書の研究の意義や検討の方法・範囲・限界を述べ(序章)、次に、仮想損失創出の直接の起源を平成13年度税制改正に見出し、同改正により出現した「仮想損失」に関する先行研究や関連する租税論争を検討し、更に遡って同改正が「唐突に」回帰しようとしたシャウプ勧告やその理論的土台である可能性のあるウィリアム・C・ヴィックリー(William C. Vickrey)理論にハイブリッド課税構造の原形を見出し(第一部)、さらに、シャウプ勧告のルーツを辿って米国連邦税法を分析し所得概念論の展開と合わせて判例における資本不課税の原則等を明らかにし(第二部)、最後に、シャウプ勧告の時代以後の米国の議論の進展、そして配当と株式譲渡損益という2つの所得特性の同一化に至った2003年税制改革をめぐる議論を参照しながら、日本の税制が「時代を遡る真逆の動き」をみせてきたことを確認した上で、(A)配当所得と譲渡所得の所得特性の統合と(B)両者の峻別の厳格化すなわち単一の取引の配当又は株式譲渡への二者択一的仕分けという立法提案を行うものである(第三部)。
本書は、著者がIBM事件当時に「IBMグループの日本地域における税務部門責任者」(はしがき)という経験に基づき「実務と学術理論の結びつけ」(15頁)を企図した研究書であり、「2023年9月8日に一橋大学大学院法学研究科より授与された博士学位にかかる博士論文を推敲して学術書として公刊することとしたもの」(はしがき)である。
さて、本書においては、仮想損失とハイブリッド課税構造という概念を基軸にして研究の構想が練り上げられ論述の構成が組み立てられており、全体を通じても個々の箇所の検討においても論旨が明快でその展開もよくコントロールされている。したがって、本書は論理性の点で高く評価することができる。本書を読み始めたとき、「バーチャル」ないし「仮想」という言葉について一種の先入観から生ずる疑問なり違和感がなかったわけではないが、その疑問なり違和感が本書における精緻な分析・論理展開に食らいついていこうとする気力を生み出したようにも思われ、仮想損失の実体(配当見返りの経済的実体)を把握するに至ったとき、この読後感も著者の想定するところであったのではないかと考えた次第である。
本書の研究は法律学一般におけると同様基本的には「問題解決型研究」であるが、「謎解き型研究」の要素をも多分に含んでいる点に特徴がある。第一部における仮想損失創出の起源に関する史的文献の検討や第二部における米国の分配課税に関する租税理論・制度の展開の検討は、概説的な叙述にとどまるところもあるとはいえ、優れた「謎解き型研究」として知的好奇心を大いに満たしてくれるものである。それらの検討の過程で重要と思われる部分につき「未だに不明である」とする箇所も散見されるが、そのこと自体は実証性の点で問題になり得るとしても、そのことを明記しながら果敢に推察ないし推論を進めている点に、著者の学問的誠実さと研究に対するチャレンジングで前向きな姿勢を強く認めるところである。
本書は、研究の軸となる仮想損失やハイブリッド課税構造という概念だけでなく研究の着眼点や結論(立法提案)にも独創性が認められるが、研究の視野ないし問題関心を分配課税の問題だけに限定せず法人税及び所得税の課税構造、資本主義経済の原理、日本人の法意識などにも広げている点でも独創的な研究の成果とみることができる。実務とアカデミアの架橋という本書の企図も独創性の観点から高く評価することができる。
以上を要するに、本書は、企業と株主間の利益移転の課税構造について、新たな視角から重厚な論理構成と論旨の展開を積み重ねた作品であり、IBM事件の当事者が「歴史的真実」を語りながら日本の税制の問題点を浮き彫りにした歴史的資料としての価値も含め、極めて学術的価値の高い研究の成果であると思量するところである。