神山 弘行 著『所得課税における時間軸とリスク―課税のタイミングの理論と法的構造―』

神山 弘行 著『所得課税における時間軸とリスク―課税のタイミングの理論と法的構造―』

(東京大学大学院法学政治学研究科准教授)
令和元年12月 (株)有斐閣

 本著は、政府の視点と納税者の視点との峻別を意識しながら、課税のタイミングに関する租税法理論の再解釈・再構築を試みる。第1編で筆者は、アメリカの判例法理や制定法が課税のタイミング(年度帰属)につき、いかなる理論的根拠法制度に依拠してどのような対応策を講じてきたかと共に、課税繰延についてアメリカで展開されてきた法理の射程とその相互の関係などを考察する。筆者によれば、アメリカの判例法理で形成・発展してきた課税のタイミングに関する法理は、主としてフローの観点から所得や費用の認識を操作してきたが、金銭の時間的価値に真剣な対応をしてこなかった日本の租税法においても、フローとストックの両側面に着目して、取引類型に応じた最も適切な手法を選択すべきであるとする。具体的な対処策を検討する前提として、筆者は、政府と納税者の観点(割引率)を峻別し、数式を用いながら従来の基礎理論の再考察を試みる。連邦政府の決算過程等における割引率や政府とリスクの関係などの考察を通じて筆者は、政府の割引率と納税者の割引率が同一であることを前提に立法政策の基礎を構築してきた租税法理論に対して、リスクと公的プロジェクトに関する機会費用概念の二側面では政府の割引率の方が低くなることを理論的に説明しようとする。さらに、課税繰延への対処策としては、(時間的価値による課税繰延の恩恵が大きい)キャピタル・ゲイン課税や(政策目的によりを課税繰延の恩恵を納税者に付与している)加速度減価償却を例に、考えられる対処策の適用可能性を検討する。

 第2編では納税者の視点からの検討に移る。ゼロ金利の影響は課税繰延に関する議論の意義を後退させたが、現実の納税者が直面する設定状況で考えると、伝統的な課税繰延の基礎理論の重要性は今なお失われていないことを指摘する。また、合理的個人を前提としてきた租税法の伝統的な議論に対して、近年では個人の限定合理性に着目する行動経済学の議論が進展していることから、限定的個人を織り込んで、行動経済学まで視野に捉えつつ、事実解明的な視点から租税理論や租税法制度の意義・機能を実証的に研究するよう提唱する。

 本書は、課税繰延措置について包括的所得を前提に検討をしてきた自己の研究をまとめると共に、伝統的な租税法の基礎理論に経済学等の関連分野の研究や手法をも取り入れて、租税法研究のさらなる可能性を拡げようとした意欲的な著作である。租税法研究が暗黙の前提としてきた「政府の割引率」と「納税者の割引率」が一致していることへの疑問と併せて、納税者及び政府が現実にどのような割引率を用いていて意思決定を行っているかという事実解明的な問いと、意思決定においてどのような割引率を用いるべきかという規範的な問いとを区別して熟考するなど、その作業は丁寧で洞察力に富む。現実の所得課税の法的構造の下で納税者が直面する状況においては、依然として伝統的な基礎理論の重要性が失われていないことを確認しつつも、具体的な法制度や執行局面を念頭に、実証的な研究を進めていくべきであるとの提言をするなど、今後の租税法研究に多くの示唆を与える本格的な研究書であり、租税法研究手法の新しい展開を予測させる作品でもある。